悲しみについて

それは突然やってくる

いつも、なんでこんなに重なるのかと思うぐらいたくさんのことと重なって

 

それを処理できる方法なんてなくて

 

泣いたり怒ったり誰かを責めたりもしくは自分を責めたりもして

 

その時間になんの意味があるのか、なんて思ったりして

 

それが良くも悪くも何にもならなくても、人生の中で幾度となく訪れる

 

悲しみって何だろう

 

ずっと苦しんだり、その存在に追いかけられたり、その面影につきまとわれて

 

一生離れないことだってある

 

そんなものなくたっていいのにどうして神は悲しみを作ったんだろう

 

悲しみを忘れる方法も、無かったことにする方法も、私は知らない

 

悲しみがあるから嬉しいことや楽しいことだってあるなんて誰かは言うけれど、それが正解なんて誰も言ってないじゃない

 

この悲しみに立ち向かう方法を誰も教えてくれないし、人生なんてほとんどが悲しみで、それにずっと立ち向かっていくだけのものなのかもしれない

 

悲しみの先にあるものってなんなんだろう

 

私が手に入れたいものが悲しみを通り越した先にしかないというのなら、乗り越えなければならないんだろうな

 

枯れるぐらい流した涙も、呆れるぐらいの怒りも、このどす黒い感情を生んだ悲しみも

 

いつかすべて笑い話になる日がくるって少しだけ信じてみるとするか

 

そしていつか、悲しみの存在について自分なりの答えを見つけたいと思っているよ

 

意味とか価値とか難しいこと言わないでね

 

自分だけの答えを見つけたいだけだから

 

 

インスタ映えと幸せという考え方

 

最近耳にしない事がない「インスタ映え

写真投稿アプリInstagramが近年大流行。いまやブログ代わりに利用している人も多いのではないでしょうか。

そんなInstagramで"映える"写真を投稿する事がインスタ映え。どれだけいいねがもらえたか、どれだけフォロワーがいるか、そんな事がこのキーワードに強く関連してきます。

 

このインスタ映え、若い女の子を始めとするムーブメントになっており、最近は写真目当てで食べ物を買い、写真撮影後は食べずに残すというニュースも多く見られ問題視もされています。

 

私自身、とても写真が好きなのでInstagramが特に流行していなかった時から密かに投稿をしていました。あの時のInstagramは、写真投稿に興味がある人しかやっていなかったし、複数投稿できる機能や細かい編集機能、24時間経つと消えるストーリーの機能ももちろんありませんでした。

いつもより少し上手く撮れた写真とか、とっておきの写真。いいねは少ししかつかなかったけど、あの時のいいねは今より重みがあった気がする。人に良いと思われたいというよりは、自分の記録としてあげている感覚に近かったような気がします。

 

最近はカップルも友達も、インスタ映えのために写真を撮って、映えるスポットだからとインスタのために足を運ぶそうです。

でもなんだかそれって、インスタのために生きているみたい。

 

写真を撮る機会がスマートフォンの普及で以前より増え、加えて今のカメラ機能は高画質で誰でも扱いやすいつくりになっています。アプリケーションの進化も留まることを知らず、フィルムカメラを買わなくてもアプリでそのフィルムを再現したり、元々の機能で背景がボケたり。だから思い出も残しやすい。なおかつSNSの流行で人との思い出の共有法として、インターネットを介する事が当たり前になっている気がします。

今の時代にはそれがピッタリはまっているし、とっても素敵なことだと思います。

 

だけど自分自身がインスタ映え世代に近いからこそ、映えない写真だって思い出だよ。と言いたくなる時があります。

写真ってその時の感情とか環境とかを思い出させてくれるものだと思うんです。

この時はこんな気持ちだったな。この時この人あんなことしてたな。それが写真だったはず。

今のインスタ映えの写真もとってもクオリティが高いし綺麗な写真ばっかりで素敵だと思うんです。でも、その写真に思い出や気持ちは残っているのでしょうか?

 

タイトルにした、インスタ映えと幸せという考え方

私はSNSをやっている事が当たり前な現代において、幸せの定義ってなんなんだろうとよく考える事があって。

SNSを見てると、多くの人がキラキラしてて、みんな幸せそうで辛い事なんてないんじゃないかな?って思う事がすごくあるんです。

でも実際そんな事はきっとなくて、ただみんな幸せにみせる事がとっても上手なだけで、日常にだって不満はあるのかもしれません。

友達や知り合いならまだしも、見ず知らずの人の私生活が覗けてしまう現代だからこそ、幸せだとみんな胸を張りたいんです。私だってそう。

もちろん幸せな事をSNSに投稿する事は何も悪くない。そこで起きていることに対してなんの感情が無くたって、無表情で文章を書いていたって、読み手側には関係ありません。

だけど私は、この時代だからこそ自分の中の幸せの定義、これが幸せだって思う事を世の中に流されたくはないなって思っています。

あの人がいいって言ってるから良い。あの人に比べたら私は幸せだ。そんな事を思いたくはないです。

私だけの基準で私だけの判断で、幸せを決めたっていいじゃないか。

インスタ映えしなくても、自分映えすればそれだけで素敵じゃないか。

深夜に大好きな人と食べたラーメンの写真。

不細工な寝顔。もう何年も大切に着てるヨレヨレのスエット。インスタ映えはしないけど、それがその人の思い出ならそっちの方が素敵。

 

誰かからのいいねより、自分のいいねを大切に生きていきたいな。

 

 

 

 

 

得意料理は何ですか?と聞かれた時なんて答えれば正解なのか問題について

初めて書いたブログなのに、こんなにどうでも良さそうなタイトルにしてしまった事を2行目から後悔しています。

でもどうしても、この疑問を不特定多数の方々に聞いて頂きたかったんです。 

 

この事を疑問に思ったきっかけは、私が自炊を始めたことです。

今まで生きていく中で料理なんて出来なくても外食で生きていけるし、料理上手な男性と結婚すれば自分がする必要もない!と思っていた私が、です。

 

そして自炊をいざ始めると思ったより楽しくてその魅力にハマってしまいました。

芸能人の方がめちゃくちゃ忙しいのに「自炊してます!ストレス発散にもなるんですよ〜」と言っていた意味もよく分かります。

料理って自分一人だけの時間になるし、調理に集中するから自然と嫌な事とか考えずにすむ時間なんですよね。

 

さあここで本題です。得意料理は何ですか?と聞かれた時になんて答えるのが正解なんですか?

 

このご時世、サラダ取り分け女子が嫌われてしまったり、家庭的アピールも裏をとられてあざといと言われてしまいます。

そんな時代で、得意料理は肉じゃがです♡なんて答えようものなら、間違いなく次の日から小悪魔だのあざといだの言われてしまうと思うんです。なんなら巻き爪になる呪いとかかけられちゃうかもしれない…そんなの嫌だ!

 

では何の料理を答えればいいんでしょう。

例えばカレーやシチューというと、「煮込んだだけじゃん」「誰でも出来るよ」と。

パスタ系を出すと「昼ごはんじゃないんだから」「誰でも出来ry...」と言われてしまいます。(体験談)

 

難しすぎます。これは現代に残された難題です。私の小さすぎる脳みそではとても優秀な答えを出すことは出来ませんでした。

 

そんな中で、この問いかけに対して一人の友人がこんな答えを出しました。

 

「得意料理というか、料理は一通り作れるのでリクエストしてくれたら何でも作りますよ!」

 

良い…!すごく良い回答なんじゃないかな、と思いました。これならその人の好きなメニューを知れたり、何ならじゃあ手料理作ってよ!という流れにもなりそうです。

おっと、ここで一つ注意です。私は合コンで通用しそうな会話テクニックや男ウケに関する記事を書いているのではありません。あくまでも個人のくだらない疑問です。

 

ちなみに私は、得意料理ではなく作るのが好きな料理を答えるのがいいのかな、と思ったりもしました。無駄にパエリアです!とか見栄をはってしまうと後々恥ずかしい思いをしそうだからです。

 

ちなみに私が作るのが好きな料理は豚汁です。初めて作った料理で、食べてもらった時とても喜んでくれたのが嬉しくてその時の気持ちが忘れられないからです。まあ料理を始めるきっかけなんてそんなものですよね。

 

ここまで読んで下さった方は、この人どうしてここまでくだらない疑問に労力を使えるんだろう…と思ったりしたかもしれません。

でももし、この質問にこれからの人生で遭遇した時はこのブログの事を思い出して下さると嬉しいですし、本望です。

 

これからはくだらない事はもちろん好きな事、その時の感情など気の赴くままに書いていきたいと思います。

 

ここまで長い文章を読んで下さりありがとうございました。