インスタ映えと幸せという考え方

 

最近耳にしない事がない「インスタ映え

写真投稿アプリInstagramが近年大流行。いまやブログ代わりに利用している人も多いのではないでしょうか。

そんなInstagramで"映える"写真を投稿する事がインスタ映え。どれだけいいねがもらえたか、どれだけフォロワーがいるか、そんな事がこのキーワードに強く関連してきます。

 

このインスタ映え、若い女の子を始めとするムーブメントになっており、最近は写真目当てで食べ物を買い、写真撮影後は食べずに残すというニュースも多く見られ問題視もされています。

 

私自身、とても写真が好きなのでInstagramが特に流行していなかった時から密かに投稿をしていました。あの時のInstagramは、写真投稿に興味がある人しかやっていなかったし、複数投稿できる機能や細かい編集機能、24時間経つと消えるストーリーの機能ももちろんありませんでした。

いつもより少し上手く撮れた写真とか、とっておきの写真。いいねは少ししかつかなかったけど、あの時のいいねは今より重みがあった気がする。人に良いと思われたいというよりは、自分の記録としてあげている感覚に近かったような気がします。

 

最近はカップルも友達も、インスタ映えのために写真を撮って、映えるスポットだからとインスタのために足を運ぶそうです。

でもなんだかそれって、インスタのために生きているみたい。

 

写真を撮る機会がスマートフォンの普及で以前より増え、加えて今のカメラ機能は高画質で誰でも扱いやすいつくりになっています。アプリケーションの進化も留まることを知らず、フィルムカメラを買わなくてもアプリでそのフィルムを再現したり、元々の機能で背景がボケたり。だから思い出も残しやすい。なおかつSNSの流行で人との思い出の共有法として、インターネットを介する事が当たり前になっている気がします。

今の時代にはそれがピッタリはまっているし、とっても素敵なことだと思います。

 

だけど自分自身がインスタ映え世代に近いからこそ、映えない写真だって思い出だよ。と言いたくなる時があります。

写真ってその時の感情とか環境とかを思い出させてくれるものだと思うんです。

この時はこんな気持ちだったな。この時この人あんなことしてたな。それが写真だったはず。

今のインスタ映えの写真もとってもクオリティが高いし綺麗な写真ばっかりで素敵だと思うんです。でも、その写真に思い出や気持ちは残っているのでしょうか?

 

タイトルにした、インスタ映えと幸せという考え方

私はSNSをやっている事が当たり前な現代において、幸せの定義ってなんなんだろうとよく考える事があって。

SNSを見てると、多くの人がキラキラしてて、みんな幸せそうで辛い事なんてないんじゃないかな?って思う事がすごくあるんです。

でも実際そんな事はきっとなくて、ただみんな幸せにみせる事がとっても上手なだけで、日常にだって不満はあるのかもしれません。

友達や知り合いならまだしも、見ず知らずの人の私生活が覗けてしまう現代だからこそ、幸せだとみんな胸を張りたいんです。私だってそう。

もちろん幸せな事をSNSに投稿する事は何も悪くない。そこで起きていることに対してなんの感情が無くたって、無表情で文章を書いていたって、読み手側には関係ありません。

だけど私は、この時代だからこそ自分の中の幸せの定義、これが幸せだって思う事を世の中に流されたくはないなって思っています。

あの人がいいって言ってるから良い。あの人に比べたら私は幸せだ。そんな事を思いたくはないです。

私だけの基準で私だけの判断で、幸せを決めたっていいじゃないか。

インスタ映えしなくても、自分映えすればそれだけで素敵じゃないか。

深夜に大好きな人と食べたラーメンの写真。

不細工な寝顔。もう何年も大切に着てるヨレヨレのスエット。インスタ映えはしないけど、それがその人の思い出ならそっちの方が素敵。

 

誰かからのいいねより、自分のいいねを大切に生きていきたいな。